長い冬の眠りの時期を経て、大地が目覚める春。霧が晴れ、鮮やかな景色が現れるとともに、バスクの食卓は一気に華やぎます。
市場に並ぶ香り豊かな春のきのこ「ペレチコ」」、地元で親しまれている微発泡のリンゴ酒「バスク・シードル」、そして「アンチョア(カタクチイワシ)」。カンタブリアの海で獲れた銀色に輝く小魚たちは、バスクの人々にとって「春が来た」と知らせてくれる、季節の風物詩です。
今回は、バスクやワイン、食を愛する皆さんに向けて、バスク在住 10年以上 × ワインアドバイザー の管理人が、バスクのアンチョア文化とその背景にある職人技、食べ方や楽しみ方まで、丁寧にご紹介します。
この記事を読めばアンチョアについての基礎知識はもちろん、ご自宅でも現地流の楽しみ方を体験していただけますよ。
アンチョアってどんな魚?アンチョビと同じ?
「アンチョア(anchoa)」はカタクチイワシのこと。
日本で一般的に「アンチョビ」と呼ばれているのも、同じ魚が原料です。
アンチョビと同様、カタクチイワシを塩とオイルで加工したものを指すほか、鮮魚もアンチョアと呼ばれています。
オリーブオイルに浸されたフィレ状のアンチョアは、スペインの食卓では定番の保存食であり、おつまみでもあります。
アンチョアの加工食品はイタリアや南米などさまざまな国で作られていますが、なかでもカンタブリア海沿岸で作られるバスクのアンチョアは、新鮮なイワシを使い、伝統的な手作業で丁寧に仕上げられます。
身がふっくらしていて塩味のバランスが絶妙で、世界中の美食家や料理人たちからも重宝されています。
アンチョアが一番美味しい季節と選び方

アンチョアの旬は春と秋。
とくに4月〜6月は、水温の影響で身が引き締まり、脂のバランスがちょうどよくなる時期です。
良いアンチョアの見分け方は?
- 色が均一で、やや赤みがかった茶色
- 皮にハリとツヤがある
- 魚体がまっすぐしていて崩れていない
こうしたポイントを押さえると、質の良いものを選びやすくなります。
熟練の技が生きる、アンチョアの加工
高品質なアンチョアは、すべて手作業で加工されます。その理由は、魚の繊細さと品質管理の難しさにあります。
材料は、新鮮なアンチョア・塩・オリーブオイルの3つだけ。
工程はこんな流れです👇
- 頭と内臓を取り除く
- 塩を敷いた樽にイワシを丁寧に並べ重ねて重しをかける
- 約6ヶ月間、13〜16℃で自然熟成
- 塩を洗い落とし、骨や皮を取り除いてフィレ状に
- 尾と皮を取り除き高品質なオリーブオイルに漬けて瓶詰め
この工程すべてに、熟練の技術と判断が求められます。
1匹1匹の状態を見極めながら、塩加減・熟成期間を調整することが、味を左右するのです。
アンチョア作りを体験してみたい方へ
バスクを代表する地ワイン「チャコリ」でも知られるゲタリアという港町には、世代を超えて受け継がれてきた伝統的な技術でアンチョアを加工する、多くの缶詰会社があります。
そんな会社の一つ、アンチョアス・マイソール(Anchoas Maisor)の工房は、塩漬けアンチョアのフィレ作りを専門としており、本格的なアンチョアのフィレの仕方を教えるワークショップも開催されています。

アンチョア加工の歴史
イタリアから伝わった塩漬けの技術と文化
バスク沿岸は、古くから豊かな漁場として知られてきました。とりわけカンタブリア海で獲れるアンチョアは、昔から貴重なたんぱく源として重宝されていました。
その歴史が大きく動いたのは19世紀後半。
シチリアを中心にイタリア各地から「サラトーリ(salatori)」と呼ばれる塩漬け職人たちが、サントーニャなどの港町に移り住んだことがきっかけです。
彼らは漁獲法や漁具の使い方を地元漁師に教え、アンチョビの加工技術を持ち込みました。
1883年にはジョヴァンニ・ヴェッラ・スカタリアオッタが現在のようなオイル漬けアンチョビのフィレを考案。
その技術と保存方法は、漁業や缶詰産業に革命をもたらしました。
また、イタリア式の塩漬け樽を再現するために樽職人を呼び寄せるなど、産業全体を整えていったのも彼らの功績です。
バスクに根づいたイタリアのDNA
当初は季節労働者として来ていたイタリア人たちも、次第にこの地に定住。
家族を呼び寄せたり、地元住民と結婚したりしながら、地域社会に溶け込んでいきました。
やがて自らの工房を立ち上げ、バスクの漁業と加工業の発展に大きく貢献します。
1914年頃には、ついにバスクでもオイル漬けアンチョアの製造が本格化。
特にオンダロアなどの港町では、高品質なアンチョアが豊富に獲れ、その評判は広く知れ渡るようになります。

バル文化とアンチョア:伝統が生むピンチョスの名作
今やアンチョアは、スペインのバルに欠かせない食材。なかでも代表的なのが、1942年にサン・セバスティアンのバル「Casa Vallés」で生まれた**「ヒルダ(Gilda)」**です。
オリーブ、ギンディージャ(青唐辛子の酢漬け)、そしてアンチョアを串に刺しただけのシンプルな一皿ですが、塩気・酸味・旨味のバランスが絶妙で、今では世界各地からの観光客をも魅了しています。

バスクの食文化の祭典「アンチョアの日」
5月には、アンチョアで有名なゲタリアの町で「アンチョアの日(Día de la Anchoa)」が開催され、地元の加工業者が屋台を出し、来場者に自慢のアンチョアを振る舞います。
職人の手さばきを見ながら、地元のワインやシードルと一緒に味わうその体験は、まさに食と文化の祭典。
アンチョアは、単なる保存食以上に、地域の記憶と誇りを受け継ぐ存在なのです。
食べ方いろいろ:バスクで味わうアンチョアの魅力
1|新鮮なアンチョアはシンプルに
バスクで春から初夏にかけて旬を迎えるアンチョア(カタクチイワシ)は、新鮮さを活かした料理が主役です。
小ぶりなアンチョアは、衣をつけてカリッと揚げれば、香ばしさとふっくらした身の食感が絶妙。地元の人々は、旬の時期にこそフライで楽しみます。
また、フライパンでオリーブオイルとニンニクでシンプルに仕上げたり、卵と合わせてオムレツにしたりと、素材を活かした調理法も人気。
さらに「ボケロネス・エン・ビナーグレ(Boquerones en vinagre)」と呼ばれる酢漬けスタイルも人気。白く透き通った身に、酢とオイル、にんにくやパセリの風味が染み込み、爽やかで食欲をそそる一皿です。

2|熟成アンチョアの深い味わい
加工された塩漬けのアンチョアも、バスクの食卓では欠かせません。
新鮮なうちは塩味がまろやかで、魚本来の旨みを感じられますが、熟成が進むと風味は濃厚になり、独特のコクが加わります。
そんなアンチョアは、パンにのせてそのままでも、サラダに添えても美味。
春には「コゴーリョ(Cogollo)」という小さなレタスにアンチョアをのせ、細かく刻んだピーマンとアンチョア、ビネガー、オリーブオイルをかけただけのシンプルな一皿が、旬の風物詩として親しまれています。

バルではさらに豊かなバリエーションが。
定番のオイル漬けや、パセリやガーリックを添えたタイプ、オリーブと青唐辛子を組み合わせた**ヒルダ(Gilda)**など、まさにアンチョアの宝庫。
グラスを片手に味わう一皿一皿が、バスクの風土を物語っています。
日本でも楽しめる!アンチョアを使った簡単バスク風レシピ
バスクで買ったアンチョア缶や、日本でも手に入る食材で、家庭でも手軽にバスク気分を味わえます。
たとえば…
カリッと焼いたバゲットにアンチョア+
- フレッシュトマトやトマトソース
- フレッシュチーズ (ブリーチーズ、山羊乳で作られるシェーブルチーズなど)
- ブルーベリージャム (少し酸味のあるジャムがアンチョアの塩味と良く合います)


簡単ピンチョス
- グリーンオリーブ+ピクルス+アンチョアを串にさして「なんちゃってヒルダ」
サラダにトッピング
- レタスや玉ねぎ、トマトなどの具材にオリーブオイル+ビネガー+刻んだアンチョアをあえてシンプルに
ほかにも、パスタやポタージュなどにほんの少し加えるだけで、料理にぐっと旨味が加わります。
アンチョア×ワインのマリアージュ
塩気と旨味の強いアンチョアにピッタリ合うのが、バスク産ワイン「チャコリ(Txakoli)」。
**「地元のもの同士を合わせる」**のは、間違いのないワインペアリング。
軽やかな酸味と微発泡が、アンチョアの塩気を爽やかに流し、旨味を引き立ててくれます。
その他にも:
- 辛口の白ワイン
- ロゼワイン
- フルーティなカバ
も好相性。
ぜひ、自家製ピンチョスと一緒にお試しください。

おわりに|アンチョアは「日常」と「旅気分」をつなぐ一品
現地のバルで味わうもよし、日本で一工夫して再現するもよし。
アンチョアはシンプルながら奥深い味わいで、バスクの風景や文化を日常の食卓に届けてくれる存在です。
旅の記憶を呼び起こしたり、まだ見ぬバスクへ思いを馳せたり。
ぜひあなたの食卓でも、アンチョアの魅力を楽しんでみてください。
