バスクの羊乳チーズ、イディアサバルは独特の深い味わいが魅力です。イディアサバルの一切れには、緑がそよぐバスクの山々、険しい斜面を縫う羊の群れ、何世紀にもわたり自然と生きてきた羊飼いの暮らしが刻まれています。
イディアサバルは、バスク固有の羊「ラチャ」と伝統を守り続けた羊飼いの歴史から生まれました。この記事では、イディアサバルが生まれるまでの物語を、羊と羊飼いの世界から紐解きます。
ラチャ羊とは | バスクの原風景を守る存在

イディアサバルを語る上で欠かせないのが、バスク地方の固有種である羊「ラチャ(Latxa)」です。イディアサバル独特の深いコクと力強い味わいは、ラチャ羊のミルクから生まれます。
ラチャ羊は雨が多く険しいバスクの山々に適した羊です。 「ラチャ=粗い」という名前の通り、ゴワゴワした長い毛が特徴です。ラチャ羊はストレートな毛質で水分が溜まらず、雨が多くても体が冷えにくいです。機敏で急峻な山を軽やかに移動します。
顔の色は黒と白の2タイプがあり、地域によっては雌にも立派な角があります。一般な羊と比べ野性的で力強い印象です。ラチャ羊は主に自然の草を食べるため除草剤が要らず、山火事や土壌侵食も防ぐので、バスクの緑豊かな原風景を守る存在と言われます。
イディアサバルの羊飼い | 移動放牧の伝統

イディアサバルの味わいは、伝統的な放牧方法と深く結びついています。バスクでは紀元前から、季節とともに羊を移動する移牧(トランスウマンシア=Trashumancia)が行われてきました。
5月から夏の終わりにかけては、涼しく栄養豊富な草が茂る高山の牧草地へ、秋から冬には山の厳しい寒さを避け、穏やかな平地へと移動します。
夏のバスクの山を訪れると、羊の群れがのんびりと草を食む光景に出会うことができます。何世紀も変わらぬ土地の風景です。
羊飼いの小屋「ボルダ」と燻製の誕生

かつて移牧中の羊飼いたちは、山に点在する「ボルダ(Borda)」と呼ばれる小さな石造りの小屋で生活し、チーズを作っていました。イディアサバル特有の燻製香は、この暮らしの中で偶然生まれたものです。
ボルダでは暖炉の煙が屋根裏に吊るされたチーズを自然に燻していました。湿気の多いバスクの山岳地帯ではこの煙の殺菌効果がチーズをカビから守るので、意図的に燻製したチーズが作られるようになりました。
バスクではイディアサバルはプレーンな味わいが主流ですが、燻製の香りが魅力のスモークタイプも長い伝統とともに楽しまれています。
イディアサバル美味しさの秘密:希少なラチャ羊のミルク

ラチャ羊は、近代的な酪農で使われる品種と比べると、決して「効率の良い」羊ではありません。1頭から搾れるミルクは、1日わずか1リットル未満で、他の乳用種と比べると数分の一という少なさです。
さらに搾乳できる期間も限られており、一般的に冬から初夏の移動放牧前に集中します。貴重なミルクには、春から夏にかけて高地の牧草地で育つ野草やハーブの香りが溶け込み、驚くほど濃厚なコクと高い脂肪分になります。
ラチャ種のミルクこそが、イディアサバルの力強く、余韻の長い味わいの秘密です。「この羊のミルクでなければ、本物のイディアサバルは作れない」という羊飼いの誇りが、今もこの野生味あふれる味わいを守り続けています。
絶滅の危機を乗り越えて:効率よりも「誇り」を選んだ歴史

20世紀後半、ヨーロッパ全体で農業の近代化が進み、イディアサバルの伝統も大きな転換点を迎えました。ミルクの量が少ないラチャ羊に代わり、外国産の多産種への切り替えや交配が推奨され、手間のかかる伝統的な飼育を諦める羊飼いが増えていきます。
その結果、ラチャ羊の数は急激に減少しました。絶滅の危機が現実味を帯びる中、地元の生産者たちが立ち上がります。
「バスクの風土を表現できるのは、古来からこの地に根付くラチャ羊だけだ」
この強い想いを原動力に、1987年、原産地呼称制度(D.O. Idiazabal)が設立されました。「この土地で、伝統的な方法で作られたチーズだけがイディアサバルを名乗れる」という非常に厳格なルールです。
現在はEUのD.O.P.(原産地呼称保護)として認められ、イディアサバルは世界でも数少ない明確な地理的・文化的アイデンティティを持つチーズとして高く評価されています。
イディアサバルを守る厳格なルール

現在イディアサバルを名乗るためには、極めて厳しい基準があります。使用できるのは「ラチャ羊」または「カランサナ羊」のミルクのみです。 風味を損なわないよう、殺菌処理を行わない生乳での製造が義務付けられています。
遺伝子レベルで他品種のミルクが混入していないか検査されるなど、類似品や工業的な模倣品から本物を守るため、すべてが厳しく規定されています。
まとめ

イディアサバルの味わいは、ラチャ羊のミルク、移牧という暮らし、そして効率よりも誇りを選び続けた羊飼いたちの歴史から生まれました。一度は消滅の危機に瀕しながらも、原産地呼称制度によって守られ、今も変わらぬ製法で作られています。
その一切れには、バスクの自然と文化が凝縮されています。背景に想いをはせながら、一度バスクのチーズ、イディアサバルを味わってみてください。



